2010年3月28日日曜日

★ 女は死ななきゃ治らない:ビートたけし

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● 1994/06



親孝行、カネの前に仁義なし

 うちのオフクロなんかずうずしいから、今、二番目の兄貴といっしょに住んでるんだけど、昔は、
 「子どもに教育がないヤツはダメだ、ダメだ」
って言ってたの。
 ところがさ、最近オイラん家が送る金が多くなったら、兄貴に、
 「やっぱり人生は教育だけじゃない」
って。
 「どんなもんでも偉くなったほうが勝ち」
だって。

 兄貴が怒ってさ、
 「ふざけるな。今までさんざんオレが世話して小遣いやっていたのに、送る額が変わった  ら、急に
 『やっぱり現金のほうがいい、教育なんかするもんじゃない』
って言い出すなんて」
 頭に来たって。

 本当にさ、ガキなんて一発で立場逆転する可能性があるんだよ。
 要するに、今までうちの兄貴は毎月毎月オフクロに3万円ずつ小遣いやっていた。
 オイラはぜんぜん、やってなかったんだ。
 だからオイラのこと、
 「あいつはロクデナシだ」
 とかいろんなこと言ってさ、それでオイラがいきなり、
 「母ちゃん悪かった!」
 って百万円やったら、今までの苦労が全部なくなっちゃたって。
 目の前の百万円でコロリと変わっちゃう。
 土地売らない農家の人みたいなもんで、現金を積まれたら今までの苦労なんかどうだっていいんだ。

 「やっぱり、たけしは偉い。
 誕生日に百万円もくれた。
 その点おまえはなんだ、また十万円か」
 って。
 兄貴が怒って、
 「冗談じゃない、何十年とやってきて百万円以上あげてんのに何で一発の百万円を目の前に積まれたらこうなんだ」 
 って。
 オフクロは、「昔は昔、今は今」だって。









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2010年3月22日月曜日

★ 宣戦布告:あとがき:麻生幾


● 2010/12[2010/03]



 広島県呉市で海上自衛隊の極秘部隊が誕生したのは一昨年。
 <海上警備隊(仮称)>なる防衛長官直轄の日本版"SELS(米海軍特殊部隊)"が一個小隊規模で編成されたのだ。
 ほぼ同時に、陸上自衛隊にも対ゲリラ戦特殊部隊が生まれ、早くもアメリカで過酷な訓練を経験したという。
 実戦配備も間もなくだとされている。

 この3年間、日本を取り巻く安全保障の「環境」は劇的な展望を遂げていると言っても過言ではない。
 その象徴がこの2つの"特殊部隊"の誕生だ。
 しかし、その実態はさらにスケールも大きく、日本という国家を変えようとしている。
 最大の理由は、やはり<テポドン日本横断事件>と<北朝鮮領海侵犯事件>だろう。
 センセーショナルに報道された2つの事件は、日本人に安全保障と言う忌み嫌われて来た現実を、問答無用に喉元へ突きつけたからだ。
 熟睡中を叩き起こされたかのように、政治家たちは慌てて法律改正と様々な予算処置を官僚たちに号令した。
 自衛隊と警察との間で氷漬けされていた協力協定を見直し、新しい装備を取り入れ、自民党内でも議論が沸騰した。

 本書『宣戦布告』を単行本として出版したのは、その大きなうねりが起きる直前のことだった。
 執筆を思いついた契機は、ごく単純なことである。
 外国のゲリラ部隊が日本に上陸しても<自衛隊は出動できない>という実態に、素直に驚いたことがすべての始まりだった。
 そして様々な関係者にインタビューを求めた。
 データを詰め込んだファイルが重ねられるにつれ、私は愕然とした。
 皮肉にも、日本の安全保障の混乱した現実がドラマ性を発揮したのである。
 そして今、文庫本として出版するという話が担当編集者の方から寄せられ、私の前に再び『宣戦布告』が帰って来た。
 もう一度、その拙稿を捲くった時、日本のいったい何が変わって、何が論議され始めたのかと改めて考えさせられることとなった。

 2001年1月現在の、出来うる限りの最新情報を取り入れ、単行本では書き込めなかったデータも交えた。
 単行本では差しさわりがあった非公開資料も引っ張り出した。
 そうして出来上がったのが、この『加筆完全版・宣戦布告』である。
 ただ、それでも尚、すべての情報と事実は、まだ私のファイルの中に積み残されている。
 本書に登場する主人公たちがなやみ、慟哭する現実派、余りにも深いドロの中に埋まっているからだ。
 
 本書はフィクションである。
 つまり"作り話"だ。
 だが、どんどん駒を推し進めてゆく、シュミレーションでもない。
 私の新たな挑戦---そう理解していただければ幸いだ。

 2001年3月 浅生幾







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2010年3月17日水曜日

★ The Historian ヒストリアン:訳者あとがき

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● 2006/03[2006/02]



 ある夜、16歳の少女が父親の書斎で見つけた不思議な本、それがすべてのはじまりだった。
 真ん中に竜の挿絵が入っているだけで、あとは白紙のその古びた本には、ドラキュラを示す言葉が記されていた。
 少女がこの本のことを尋ねると、父親のポールは青ざめ、彼女の思いもよらなかった過去をほつりぽつりと語りだす。
 大学院時代のこと、この竜の本にまつわる資料をポールに託した直後に不可解な失踪をとげた指導教官ロッシ教授のこと、そして、少女が幼い頃に亡くなった母親との出会いを。
 ポールは恩師の行方を捜して、イスタンブールから冷戦下の東欧まで竜の本の謎を追いかけるのだが、すべてを話し終えないうちに、今度は彼が娘の前から姿を消してしまう。
 少女はのこされた手紙を手がかりに、決死の覚悟で父親捜しに行く‥‥。

 本書『ヒストリアン』は、発売されると同時に、全米ベストセラー第一位に輝いたエリザベス・コストヴァの華々しいデビュー作である。
 累計部数は百万部を突破、世界33カ国で翻訳出版が決定し、映画化も予定されている話題作だが、10年の歳月をかけて紡ぎ上げられたこの壮大な物語はその前評判の高さにもたがわず、歴史ミステリのおもしろさを心ゆくまで堪能させてくれる。
 ここでは3つの時代の物語が幾重にも絡み合い複雑な模様を描きながら、作者のしなやかで卓越した手にあやつられて美しくも哀切なハーモニーを奏でる。
 若き日のロッシが竜の本の謎を追う1930年代、少女の父親がそのロッシを捜す50年代、そして少女が父親の行方を捜す70年代。
 この3代にわたる数奇な物語で登場人物のたちの運命を翻弄するキーマン、それがドラキュラである。

 ただし、ここに登場するドラキュラはブラム・ストーカーとハリウッドが創りだした"ドラキュラ伯爵"ではない。
 押し寄せるオスマン帝国十数万の大群をわずか数千の兵力で退けた母国の英雄にして、自国の民を何千何万となく串刺し刑で粛清したとされる血に餓えた暴君、15世紀に実在した封建領主ワラキア公ヴラド・ツエペシュのことだ。
 はたしてこの誇り高き孤高のワラキア公は悪逆非道な吸血鬼なのか?
 いまだに謎とされるその死の真相と死骸の行方も含めて、薄暗い文書館で、山中にひっそりたたずむ修道院で、時が止まったような東欧の村で、ゆっくりした地道な足取りながらスリリングな探索の旅が続く。
 銀の銃弾や十字架や杭といったおなじみの小道具も登場するが、本書の歴史家たちが手にした吸血鬼退治の最大の武器は、古い地図や手紙や伝説といった資料であり、歴史の真実を解き明かしたいという情熱であり、愛する人を救おうとする勇気である。

 2006年1月    高瀬素子











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2010年3月16日火曜日

: 臨死体験の5段階

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● 1998/04[1997/12]



 臨死体験にはおおむね5つの段階で成り立っている。

 まず第一段階として、安らぎや安堵感を覚える。
 多くの体験者が臨死体験を素晴らしいもの、心地よいものと表現している。

 次の第二段階が、対外離脱体験(アウト・オフ・ボデイ・エクスペリエンス)。
 通常は「OBE」と略される。
 自分の意識の主体が肉体から浮き上がり、自分の肉体を見下ろすことで、俗に言う「魂が抜け出た」状態である。
 このときの体験者の感覚は非常に明晰であり、冷静かつ客観的に離脱の状況を受け入れ、周囲を観察する。
 かっては意識の主体が肉体と紐で結ばれていたと報告する体験者も多かったが、近年ではそのような紐を見るものは少なくなってきている。

 第三段階で体験者は光の世界へと向かう。
 多くの場合、一旦やみの中に入り、そこを抜けて光の世界へと到達する。
 トンネルを潜っていくような感覚であるといわれる。
 光の世界とは「死後の世界」あるいは「天国」である。

 第四段階として、光の世界に到達した体験者は美しい風景や建造物、あるいは神や仏、死別した知人の姿を見る。
 神と会話してメッセージを託されたり、全宇宙と一体になったような法悦感を覚えたという例もある。
 さらに、これまでの自分の人生が走馬灯のように浮かんできたと語る者もいる。
 それらの光景が自然に蘇ってくる場合もあれば、神が意図的に見せてくれたという場合もある。

 そして体験者は、神などから「おまえはまだここに来るべき人間ではない」といった拒絶の意向を聞き、あるいは背後から呼ぶ声が聞こえたり無理やり引き戻される力を感じたりして、自らの肉体に戻る。
 このとき体験者の多くは「死後の世界」の心地よさを思い返し、そのまま留まっていればよかったと後悔する。
 これが第五段階である。









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★ Brain Valley ブレイン・ヴァレー:瀬名秀明


● 1998/04[1997/12]



 1970年代後半から80年代にかけて、癌の解析が飛躍的に進んだ。
 DNAやRNAを取り扱う遺伝子工学の技術が飛躍的に進歩したためである。
 目的の遺伝子を捜し出し、その塩基配列を決定し、さらにはその一部を人為的に変異させて作用の相違を観察する。
 このような一連の操作を比較的簡便に行うことが出来るようになってきたのだ。

 癌は細胞の増殖に関与する遺伝子やその制御シグナルが異常をきたすことによって引き起こされる。
 癌遺伝子は世界中で争そうようにクローニングされ、その働きが調べられた。
 その結果、癌関連遺伝子が非常に多岐にわたること、そして細胞の増殖機構に深く関係していることがわかってきた。
 細胞内のシグナルネットワークがようやくその姿を見せ始めたのである。

 一方、脳の研究は、癌や免疫のそれに比べると遅々としていた。
 あまりにも難解で、どこから手をつければいいのか研究者自身もわからなかったのである。
 1950年代になって、ワイルダー・ペンフィールドがてんかん患者の頭蓋を開き、脳に直接電気刺激を与えて何が起こるかを観察するという一連の研究を行った。
 ペンフィールドの研究は脳研究の歴史のなかで大きな位置を占める偉大な功績であったが、人体実験ともとれるこの方法は自主規制されるようになり、やがて研究対象はネズミやサルに移ってゆく。

 時代が進むにつれて、脳研究を行う際の難問が次第に明らかになってきた。
 脳の大きな特徴は、一つ一つの神経細胞の活動が、統合されて意識や情動の」ような規定しがたい大きな状態を作り上げていることにある。
 ミクロとマクロの視点が必要になってくる。
 これがたの生物化学の分野と明らかに異なる点であった。
 神経細胞内の物質の動きというミクロの問題を、どのようにして脳の高次機能というマクロな問題へと連結させていくか。
 研究者たちはそれに回答することができなかった。

 具体的な問題としては二つあった。
 一つは、モデル実験が極めて困難であること。
 神経細胞一つを取り出しても脳全体の働きを把握することはできない。
 人体実感が不可能ならば動物を用いるしか方法はない。
 動物はこちらの質問に答えてくれない。
 脳を刺激し、いま何が見えているかと尋ねることはできない。
 免疫や癌の研究であればある程度モデル動物を用いた実験で代用が可能であるのに対し、脳の研究では単純には話は進まない。

 もう一つは、脳機能を測定し解析するための有用な技術がほとんど存在しないということであった。
 脳波や神経細胞の電気的興奮を測定する程度しか方法がない。
 笑ったり泣いたりしているときに、脳のどの部分がどのように変化しているのか、観察することができないのだ。
 測定手段を持たないものは研究対象として成立しがたい。
 結果と原因をつなぐ論理的な解釈を与えることができないからである。

 癌や免疫の研究がピークを過ぎたころ、研究者たちは次にクローズアップされるテーマは何かと考えるようになった。
 そして多くのものが、これからは「脳の研究」だと直感したのである。
 また社会もそれを要請していた。
 幸いにも、癌研究の発展につれて、脳の研究は新たな時代に入っていった。
 遺伝子の研究技術が進んだことにより、脳機能を遺伝子レベルで解析できるようになったのである。

 一方、工学分野の劇的な進歩により、脳機能の解析装置が飛躍的に発達した。
 脳内に発生する極微小の時期を測定できるようになったために、脳のどの部分が反応しているかをおおまかだがある程度見て取ることが可能になりつつあり、記憶や情動などこれまで手のつけられなかった脳の高次機能の研究に道が拓けたのだった。
 ミクロとマクロを解析する手段がようやく成熟し始めた。

 多くの研究者が、これからの脳研究は遺伝子とコンピュータに接近していかなければならないと感じていた。
 これから研究成果が続々と発表されてきる。
 それらを統一し、容易に検索できるデータベースが必要だった。
 精神疾患の原因となる遺伝子を解析するためには、ヒトゲノム解析計画のデータも必要になってくる。
 他分野のデータと即座にリンクできる環境を整備しなければならない。
 また、脳の機能を研究するのは脳の構造を視覚的に表現する技術が必要不可欠である。
 コンピュータフラフィックスを用いて、どの部位が反応しているかを確認できるようにしたい。
 さらに、脳の記憶のメカニズムが理解できれば、脳を模したコンピュータを作り上げることができるかもしれない。
 今後の脳研究は神経科学者だけが行うのではなく、遺伝子やコンピュータ工学の専門家と連携して進めることが重要だった。





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2010年3月14日日曜日

: いわゆる、ネクラである


● 2000/06[1995/06]



 イタリア人は陽気、というのが一般的なイメージだけど、実際付き合ってみるとけっこう屈折していて考え込むタイプの人が多い。
 いわゆる、ネクラである。
 インテリはデカダンに、一般人はイタリア式苦難に満ちた日常生活の問題に、それぞれ考え込まないといられない毎日のようだ。

 しかし、あまりに悩みの種は多くて、いちいち深刻になっているときりがない。
 それならばとりあえず、暗く落ち込むのは先送りにして、この瞬間だけでも楽しんでおこうか。
 ということで、たいていのイタリア人は表面的に明るくタフなのである。
 時には、必要以上に。
 こんなに苦労が絶えない国に住んでいる限り、刹那的にならざるをえない。
 <ドルチェ ヴィータ(=甘い生活)>というわけにはいかないよ。

 食事に呼ばれて呼んでを繰り返すうちに、相手がいつもハイな状態ばかりでないことがわかり、弱い部分が見えてくる瞬間がある。
 いったん<その瞬間>にたどりつくと、あとは堰を切ったようにグチが、悩みが、哲学的迷いが次々と湧き出して、それは止まるところをしらない。
 そうなると食卓は、一気に互いの<不幸比べ>の場と化し、本当にイタリア人て暗いなとため息が出るばかりとなる。

 さて、数をそれなりにこなすうちに、食卓での話題の展開はたいてい決まったパターンがあるらしいと気がついた。
 まるでマニュアルに沿うがごとく進行するので、高みの見物の気分で聞いているととても楽しい。
 食事開始。
 各自の近況報告的な話題、
 他人の噂話、
 新情報、をひとしきり話した後、
 現在の政治状況がいかに堕落していて、何がどうだめかの話になる。
 これは文化度の高低を問わず、必ず大討論になる。
 口角あわを飛ばし、とはまさにこれ。
 その音量の大きさたるや、耳をつんざくばかりである。
 というのも、全員が興奮して、意見をほぼ同時に言い合うから。
 さらにそういうとき、イタリアでは暗黙の了解で声の大きい人が発言権を得ることになっているらしい。
 相手を制して自分が先に話そうとするため、音量はエスカレートする一方。
 最後は声がかれてしまっている人もいて、たいそうなことこの上もない。
 「イタリア式食卓会話」に馴染みの薄い外国人など、こういう呶鳴り合いには怯えきってしまう。
 喧嘩にしか見えない。

 それぞれ言いたいことを言い合ってすっきりしたらその次は、どれだけイタリアが、そして自分たちイタリア人が、さらに己が、いかに情けない存在かについての嘆きの洪水が始まる。
 延々と続くが愚痴り方にも個性があって、まるで芝居を見るよう。
 あまりにも清国に嘆くので、そんなにイタリアは危ないのか、そんなにあなたは苦しいのか、と一度心配になって尋ねたことがある。

 ハツハツハツ。
 心配するな。
 深刻ぶったり、被害者ぶったりするのが、僕らは好きなんだ。

 だそうで。





[◇]
 大きなモールには各国のレストランが軒を連ねている。
 レストランといえば中華とイタリアンがもっともポピラー。
 そしてうるささもこの2つ。
 中でも他を圧倒的に引き離して、とてつもなく騒々しいのがイタリアレストラン。
 はた迷惑な「夜の大騒音」といってもいいほど。
 日本風の「食事は静かに楽しむもの」なんてのは何処吹く風。
 まるで時間の空白に恐怖しているがごとく。
 一時の静けさですら、地獄に落ちるかのごとく感じる人種なのかとも思ってしまう。
 群れていないと寂しくて寂しくてたまらない、といった風。
 個性の表出というよりも、心理的空白を埋めよう埋めようやっきになっているようにも見える。
 埋めても埋めても、次から次へと空白が滲み出てきて、ひたすら駆けて続けている。
 この騒がしさに顔をしかめて、イタリアレストランの周囲にはお客は近寄らない。
 イタリア租界の雰囲気が濃厚に周囲を覆ってしまうのだ。
 この風景を見ると、イタリア人は陽気というより、「寂しさの裏返し」の方が正しい表現のように思えてくる。
 日本人の対極に位置する特異人種である。
 ちなみに、この街のステーキで一番おいしかったのは、無愛想で無口の怖そうなオバサンと、それをとり返すかのようにひじょうににこやかで愛想のいいオジサンがやっていた小さなイタリアレストランのものであった。




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: 左官屋パラーデイオ、建築家になる


● 2000/06[1995/06]



 時は16世紀。
 ルネサンス時代。
 海運業が零落し、次の活路を領土拡大に求めたヴェネツイア。 
 まず手始めに隣国ヴィチェンツアを侵略した。
 そして征服した証に、街の景観をヴェネツイアそっくりにしてしまった。
 ヴィチェンツアの貴族は、悔しくて悔しくて
 とはいえ、簡単にどけてしまうわけにもいかない。
 モノはなにせ広場まるごとなのである。

 「ヴェネツイア人が、この世で一番嫌いなものはなんだろう?」
 ヴィチェンツアの貴族は、毎日考えた。
 「ローマである!」
 ずっと商売に、つまり海賊業、に明け暮れていたヴェネツイア人は、異国の文化(つまり、略奪してきたもの)と新しい情報をたっぷり手に入れて、しかも金満家だ。
 ところが自分たちの独自の文化といえば、ゼロに等しい<貧乏>ぶり。
 一方、ローマといえば、イタリア半島の歴史が始まって以来、脈々と続く濃厚な文化基盤と人材がある。
 坊主憎けりゃ何とかで、ヴェネツイアは<ローマ的なもの>との接触を一切拒んでいたのである。
 「これしかない!」
 ヴィチェンツアの貴族は思った。

 ヴィチェンツアの有力貴族邸に出入りする左官屋の仲に優秀な若者がいた。
 主人はこの若い左官屋を呼びつけて、こう言った。
 「
 パッラーデイオ、明日からお前はローマへ建築の修業に行け。
 現地で、古代ローマ人の偉業をしっかり学んでこい。
 できるだけ早く優秀な建築家になるよう日々努力すること。
 費用は全て私が出す。
 かってのローマの壮大な構想を最大限に引き立てながら、現代の文化を創りだす修業を積んでくるのだ。
 これみな、ヴィチェンツアの名誉のためなのだ。

 劇作家でもあったこの貴族は、あるギリシャ悲劇の復讐を遂げる登場人物の名を左官屋にはなむけとして贈った。
 「明日からお前の名は、アンドレア・パッラーデイオとせよ」

 ルネサンス時代の大建築家パッラーデイオは、こうして世に出たのである。
 いかにもローマ的でありながら、実は全く新しいモノ創りを、と言われてパッラーデイオは必死でがんばった。
 至難の注文だ。
 こうして、巨匠古代ローマ人建築家たちの構想と技法を巧みに活かしながらも、まるで新しい建築物が、そう「パッラーデイオ様式」が誕生したのである。

 さあいよいよ<仕返し>の開始である。
 目には目を、歯には歯を。
 そして「文化には文化を」。
 パトロンが考えた仕返しは、ヴェネツイア人の大嫌いな<ローマ>を、パッラーデイオの才能で味付けをモダンにして街中にもってこよう、というものだった。
 建築の注文を受けるたびにパッラーデイオは、自分の個性むき出しの建物を意欲的に造った。
 何処から見ても、パッラーデイオ。 
 何処に建っていても、パッラーデイオ。
 斬新で強烈なその建築様式は、でもどこか<ローマ>なのである。
 パッラーデイオの行く先々に、にょきにょき<ローマ>が出現した。
 お金を出し続けた貴族は、どんなに嬉しかったことだろう。

 ヴェネツイア人は、よほど悔しかったらしい。
 当時大評判だったパッラーデイオ先生の作品は、ヴェネツイアでは街の外れの目立たないところにポツンポツンとたっているだけなのである。
 しかも小さく。
 
 「壮大な喧嘩は、壮大な文化を生む
 のですね。







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2010年3月13日土曜日

★ イタリアン・カプチーノをどうぞ:内田洋子

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● 2000/06[1995/06]



 わたしはイタリアが好きです。
 ミラノやローマの空港に降り立つ度に、まるで初めてイタリアに来たときのようにわくわくします。
 世の中の面白いことが自分を待ち受けているような感じ、といえばいいのでしょうか。
「今度は何を見せてくれるのかしらん」。
 走って国中を見てみたいような衝動に駆られます。
 嬉しくて嬉しくて、いてもたってもいられません。

 日本とイタリアを往き来するようになって19年目になりますが、未だに毎回この気分は変わりません。
 ところが、そうした幸せな気持ちをじっくり噛み締める間もなく、「イタリア的トラブル」はやたら次々と身に降りかかってじます。
 空港でまつわりつく白タク。
 押し寄せるジプシーのスリ団。
 あっつ、釣り銭ごまかされた!
 ニコニコしながら、違う道順を教えてくれるオジさん。
 しょうっちゅう計算間違いのある、公共料金請求書。
 ああ、どうしてこんな国に来てしまったのだろう。
 やっぱり、日本がいいなあ。
 期待を裏切られる生活にもすっかり疲れてしまって、深いため息をつきながら天を仰ぎます。
 すると、また天から笑いと幸せが降ってくる。
 そういう国です、イタリアは。

 秩序正しく見事に統制のとれた日本社会と違って、外から見ればイタリアは支離滅裂です。
 中に入るともっとすごい。
 国民全員が、自分の好きなことを自分勝手にしています。
 みな一斉に文句を言う。
 必死で言う。
 自分だけが正しく、他人は間違っている。
 うるさいの、うるさくないの。
 ところが、避難はするけど否定はしない。
 それもまた人生、と尊重するのです。
 そこで、ますます統制は乱れ、イタリアは四方八方へと収拾がつかなくなる。
 困った、と言いながら、でも誰もまとめようとはしない。
 イタリア人の数だけイタリアがある、という感じ。
 まさに混乱の極み。
 これではまともな社会生活が送れる方が不思議というもの。
 でも、このカオスこそがイタリアのパワーです。
 巻き込まれると大変です。
 が、それもはじめのうちだけ。
 波乗りをする気分で、イタリアの事件の海に身を任せるのが楽しみになってきます。

 陽気なだけが取り柄のように言われるイタリアですが、辛いときだってある。
 暗くてさみしいイタリアもあれば、憎たらしいイタリアもある。
 私が会ったいろいろなイタリアをご紹介してみたつもりです。
 
 イタリアへ、本当に、ようこそ。

 1998年8月  内田洋子








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2010年3月12日金曜日

★ 韓国の「昭和」を歩く:ソウル駅:鄭銀淑

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● 2005/07



 韓国の鉄道の歴史は京仁線(キョンイン)から始まった。
 京仁線は日本企業によって1899年9月に仁河・鷺梁津(ノリャンジン)の33.2kmを結んで開業した。
 1900年には漢江鉄橋(ハンガン)が完成し、も南大門駅まで開通。
 この南大門駅が1910年に解明されて「京城駅」となった。

 南満州鉄道株式会社(満鉄)は、京城駅を日本、朝鮮、満州を結ぶ国際標準の駅舎にせねばならないと判断し、新しい京城駅を1922年6月に着工し、1925年9月に完成させた。
 これが今のソウル駅の建物である。
 丸いドームと赤レンガが際立つソウル駅が見えてきた。
 植民地時代から今に至るまでの韓国の近代史を目撃してきた駅。
 KTXの開通とともに建てられた新ソウル駅が脚光を浴びているため、昔ほどの存在感はなくなってしまったが、立てられた当時はその規模と豪華さにおいて朝鮮総督府とともにソウルの近代化を象徴する建築物であった。



 ソウル駅を見て東京駅を思い浮かべる日本人は多い。
 それは決して不思議なことではない。
 ソウル駅は朝鮮総督府に勤務したドイツ人技士C・K・ラデインと東京大学の建築家教授である塚本靖の合作として知られている。
 塚本靖は朝鮮銀行本店を設計した、日本近代建築の父である辰野金吾の弟子である。
 辰野金吾はアムステルダム駅にならって東京駅を設計した。
 その弟子である塚本靖は師匠の作品・赤レンガの東京駅にならって京城駅を構想したといわれている。
 当時、駅の1階には待合室、2階には貴賓室と床屋、食堂があり、地下には駅事務所があった。
 2階にはあった洋式食堂は当時のセレブたちが集まる社交場として名声を誇ったという。
 
 駅舎の軒には直径1mを超える大きな時計がかかっている。
 まだ時計が貴重品だった時代に、庶民に時刻を知らせるという役割もあったらしい。
 現在のソウル駅の時計は1957年に入れ替えられたものだ。
 ソウル駅の時計だけでなく、朝鮮では鉄道そのものが庶民の時間感覚を大きく変える役割を果たした。
 農耕社会で暮らしていた朝鮮人には分・秒単位にまで時間を切り分けるような西洋的な概念はなかった。
 しかし、列車は決まった時刻に出発する。
 人々は列車に乗るために、時刻を気にしなければならなくなった。
 朝鮮の庶民は鉄道が入ってきたことにより、近代的な時間感覚を学んだのだった。












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2010年3月11日木曜日

★ ひとの子 神に挑む者:訳者あとがき:李文烈

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● 1996/04



 この本は、李文烈(イー・ムニヨル)の長編小説『*******[ハングル字] (ひとの子)』の全訳である。
 けれども、『ひとの子』という表題だけでは内容を想像する手がかりになりにくいことを考慮して、著者の諒承のもとに「神に挑む者」とサブタイトルを付した。

 著者の李文烈は、今日日の韓国文学を代表する小説家の一人である。
 そして『ひとの子』は、李分烈が文壇にデビューして間もなく発表された、彼の最初の長編小説である。
 李文烈は1979年正月、韓国の新聞各紙が行ってきた新春恒例の文芸作品募集の中の、<東亜日報>のそれに中篇『塞下曲』が当選して文壇にデビューした。
 それから半年後の6月に上梓して第3回「今日の作家賞」を受賞し、話題をさらったのが『ひとの子』である。

 この小説は、初版を出してからおおよそ7年後の1987年1月に増補改訂されたが、それ以来、1993年6月までのおおよそ6年半の間に27刷りされた。
 そしてそれをもとに、昨年の秋、つまり1995年秋には、パリでフランス語訳が出版された。
 このたび日本で出版されるこの訳本もやはり、同じ版をテキストとしたが、李文烈は日本で反訳、出版されるこの本のためにさらに念入りに改訂と修正を加えている。

 小説の増補改訂というのはほほどの事情でもないかぎり、滅多にないことである。
 『ひとの子』に対してそれがなされたというのは、よほどの事情があったことになるわけだが、著者が次のように説明しているその理由を知ることも、この作品を理解する助けになると思われたので付け加えておく。


 1996年3月11日 安宇植











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2010年3月9日火曜日

: 無責任人間 ピータンパン人間の誕生


● 1984/05



 アメリカではこの過去30年というもの、書籍やメデイア、それに教育思想にいたるまで、すべてが「許容の精神」をモットーにしてきた。
 その結果、親の権威を振りかざしたり、罰を与えるのはもってのほか、子どもの成長空間を制限するようなことは、けっしてしてはいけないという育児が、堂々とまかり通るようになってしまった。

 この方式で育てられた子どもはどうなったか。
 無責任人間、それも
  「本格的な無責任人間」
 になってしまった。
 怠け者とか怠惰などというなまやさしいものではなく、自分だけは特別だと信じ込んでいるから手に負えない。
 しかも悪いことに、こうした無責任ぶりを誰も直そうとしなかったので、彼らは基本的な身の回りの始末すらできない。
 清潔にするとか、整理整頓するとか、礼儀をわきまえるとかいった、日常のちょっとした立居振舞いもちゃんとできない。
 さらに進み、本当にだらしない人間になると、完全に自信をなくしてしまう。
 理由は簡単。
 「小さなことさえちゃんとやれないんだから、大きなことなんかヤル気にならない」
 子どもはそう思い込んでいる。

 ほとんどの場合、両親は子どもの前では幸福そうな夫婦を演じようとする。
 本音をぶつけ合って真実に出会うことを恐れ、お互いに避けている。
 相手がどうだこうだと言い合うのもイヤだが、自分たちの、このみじめな気持ちをこれ以上認めるのはもっとたまらないからだ。

 そんなことをするくらいなら、とにかくここは笑顔をつくり、一見楽しそうに、にぎやかに一家で揃ってお出かけなどしたほうが面倒でなくていい。
 心がどこかよそに行っていたって、誰も文句は言わない。
 決められたとおりの役割を従順に、忠実に果たしてさえいれば、それで済むのだから。
 こうした家族は傍目にはどこも悪いようには見えない。
 むしろ、うらやましがられるかもしれない。
 中がよくて楽しそうで、非の打ち所がないファミリーだ。
 しかしそれは外観だけで、感情の世界では、一皮剥くと、まるでガン細胞のように不満が猛烈な勢いで増殖し続け、幼い子どもたちの心や平和や安心をむしばんでいる。
 こうした夫婦は口に出して言わないが、こどもたちのために離婚もせずにがんばっている。
 しかし、それは大きな間違いだ。
 このままではいけない。
 さもないと子どもたちはますます不幸になる。

 ピーター・パン人間のファミリーには、経済的に何の苦労もない家族が多い。
 子どもに愛情の代わりに「小遣い」を与える親たちなのだ。
 親はお金の稼ぎ方を教えることもない。
 子どもたちも、食べものに家、それに安全を当たり前のことだと思っていて、何か
  「お金で買える新しい遊び」
 はないかと、探し回っている。

 制限無しの豊かさは、子どもたちにドミノ効果(将棋倒し効果)を引き起こす。
 まず、「勤労の価値」が真っ先にに崩壊する。
 快楽は働いてはじめて手に入る価値ではなく、当然の権利とみなされてくる。
 次に、あまりにも時間を持て余し、彼らは個人としてよりも、むしろ家庭があまりにも不安定なために、グループとしてのアイデンテイテイを求めるようになる。
 必死になって、自分たちの「居場所」を探そうとする。











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★ ピータンパン・シンドローム:著者まえがき:ダン・カイリー


● 1984/05



 それはけっして生命を脅かしたりしないから病気ではない。
 その人の精神的健康状態を危険にさらすわけだから、たんなる不都合ではすまされない。
 その症状はよく知られたものなので、これから私が話すことは、発見とはよべない。
 ただ、そうは言っても、この状態を採りあげて詳しく説明した本はこれまでなかったのだから、本書はその意味で画期的だと自負している。
 ”それ”は新種の心理現象である。
 だから既存のカテゴリーにはあてはまらない。
 が、その存在は否定できない事実だ。
 私たちの職業では、そうした異変を『シンドローム(症候群)』と呼ぶ。
 そしてシンドロームとは、いくつもの症状の集合体のことで、それが
  「ある種の社会現象をひ引き起こしているもの」
 である。
 
 この本は、大人になりきれなかったアダルトの男たちについて書かれたものである。
 彼らがどうしてそうなったのか、そこでどんなことが起こっているのかについても述べることになる。
 1章を読めば、あなたは身近な誰かを、実はこの”おとな・こども”とみなすようになるだろう。
 また、なぜ彼がそのような行動をするのか、きっと「なるほど」と納得すると思う。
 彼らは10代の後半から20代の初めを、勝手気ままに生きてきた男たちだ。
 ナルシズムに酔い、自分以外の世界は見ようとせず、現実離れした自我の旅を続け、その時々の空想のままに行動することを最高と信じていた。
 しかし、現実という壁にはばまれ、だんだん目が覚めてみると、今度は今までとは逆に、「‥‥したい」を「‥‥すべきだ」に置き換えて、世間から後ろ指さされない行き方こそ、自分に許される唯一の生きる道だと、180度の方向転換をやってのける。
 ときどき、感情を抑えきれなくなって爆発するが、周りの人たちはそれを男らしい自己主張と解釈しがちだ。
 しかし彼らは、愛されて当然とは思っても、自分から他人を愛そうとはしない。
 大人のフリをしているが、やっていることをよく観察すると、甘やかされた子どもと同じ幼い男にすぎない。

 子ども時代、あれほど賢く感受性の豊かだった男が、どうして未熟で怒りっぽい大人になってしまうのだろう。
 それは、子どもから大人になるまでの長い時間の経過の中で起こった変化である。
 この経過を逆転させるチャンスはたくさんある。
 あきらめるのはまだ早い。
 きっとチャンスがある。

 この本は、”おとな・こども”たちに手を貸そうとする友人や親類などの大人のひとたちにも、もちろん役立つと思うし、何よりも”おとな・こども”である本院のための本でもある。
 今からでもけっして遅くはないのだ。
 何歳になったら手遅れということはない。

 あなたは、きっと彼を助けることができる。
 彼は自分を愛してもいなければ、自分を信じることももないし、まして自分自身に耳を傾けることもまいからだ。

 これから彼は、この世界をできるだけ広く旅しなければならない。
 それは自分の気持ちを語り、ひとの話に耳を傾けるという旅なのである。

 1983年 ダン・カイリー







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2010年3月8日月曜日

: 台湾独立と「上海独立」

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● 2002/06



  ところで、上海で数人の中国人に会って話してみると、意外なことに
  「台湾の人々が独立したいのならすればよい」
 という意見が多かった。
 「台湾には独立してもらった方がいい、上海も独立できるから。
  私のまわりの若い人は、皆そう考えていますよ」
 と述べる若い人もいた。
 調査の母数が数人では少なすぎるが、私は非常に意外だった。
 これをどう考えるべきだろう。
 頭をよぎったのは、
  「北京愛国、上海愛出国、広東売国」
 という言葉だった。
 「
  北京の人の愛国心は強い。
  上海人は祖国を捨てて外国にいきたがる。
  広東人はお金のためなら祖国を外国の侵略者にも売る

 といった意味らしい。
 広東省にとって非常に重要な意味を持つ香港が、中国領土でありながら「外国」の地位にある場所であるとしたら、「租界」から生まれた上海は逆に、「外国」を中国国内にとりこんだ伝統を持つ場所だといえる。
 そこが広東と上海の違いになっていると思われる。
 
 これを私なりに台湾との関係にあてはめると、
 「国家意識の強い北京の人は、台湾に独立されると中国の統一が崩れかねないので大反対」
 「上海の人は、自分たちも自由になりたいので台湾独立は容認」
 「広東の人は、経済発展にプラスなら、台湾企業は大歓迎、中華民国の学校も作っていいですよ」
 といったところになる。

 台湾にはもともと、マレー・ポリネシア系の先住民族の人々(台湾では「原住民」と呼ばれている)だけが住んでいた。
 そこに16~17世紀に、台湾海峡の向かい側にあたる中国大陸の福建省や広東省から、中国人が移民してくるようになった。
 現在、台湾の人口の約85%を占める「本省人」は、その子孫である。
 本省人の母語である「台湾語」は、福建省南部の言葉「ビン南語(びんなん)」と同じである。
 台湾語は、もともと表記法のない言葉で、文法も北京語とは全く違う。
 現在の台湾では、意味と発音が近い漢字を各音節に当てて表記する方法をとっている。
 ある音節にどの漢字を当てるか、規則が一つだけでないなどの難点があり、ほとんど実用されていないという。
 台湾語は事実上、会話だけの言葉である。

 2000年3月、台湾で史上初の政権交代が起きた。
 総統(大統領)を決める選挙で、それまでの50年以上政権の座にあった国民党が破れ、野党だった民主進歩党(民進党)が勝ったのである。
 中国大陸の共産党政権は一度も国政選挙をしたことがないから、選挙による政権交代は中国4千年の歴史でこれが初めてだった(台湾を中国の一部だと考えた場合の話しだが)。

 民進党は圧倒的に本省人の政党で、国民党も共産党も外部勢力であると敵視し、
 「台湾は中国と別の国になるべきだ」と主張する「台湾独立論者」も多い。
 李登輝は、1996年の総統選挙で自分が勝ち、次の2000年の総統選挙で野党民進党が勝つまで、与党のトップにいるのにもかかわらず、密かに民進党を支持しているのではないか、と思われる言動をすこしづつとるようになった。
 国民党の内部では、以前は党を牛耳っていた外省人がはずされ、李登輝を筆頭に本省人が要職につくようになった。
 こうした国民党の「本省化(台湾化、本島化)」は、国民党を民進党に近づけるものだった。
 こうした台湾政府の「本省化」の仕上げが2000年の総統選挙だった。

 この選挙のあと、李登輝は国民党が負けた責任をとって党首を辞任した。
 李登輝という政治家の行為には、鬼気迫るものがある。
 彼は権力の頂点に上りつめながら、国民党が圧政を復活しないよう、中国による武力支配にも向かわぬよう、民主化を逆戻りできないようにするために、自らが政治的に「自爆」することで、国民党政権を潰してしまった。
 その心理は、中国の個人主義的な政治伝統の中にいる外省人政治家や大陸の共産党には、理解しにくいものだろう。
 せっかく権力を手にしたのに、台湾の人々のためとはいえ、どうしてそれを自ら壊すことができるのか。
 「これはまさに、戦争中の日本にあった特攻隊の自爆攻撃の精神だ、やっぱり李登輝は半分日本人だったんだ、と中国人たち(外省人と共産党)は思っていますよ‥‥」
 と知日派台湾人が選挙の直後、感慨を込めて語っていた。







[◇]
 副題が「何も知らない日本」とあったので、いったいどんなことが書かれているかと思った。
 まるで知らなかったのは、中国は海洋大国だったということである。
 このことと些細な出来事を除いて、大局的にはとりたてて「何も知らない」というものはない。
 若干、視点を変えてみればこうも解釈できますよ、というところである。
 政治論や経済批評などの本の大半は、ほぼそんなものであふれ出る情報の一つである。
  「なるほど、そうも言えるな」
 とうなずける部分があれば、読んだ価値がある、ということであろう。



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: 「危機感」

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● 2002/06



 古代から、中国外交のやり方は「冊封(さくほう)」とやばれるシステムをとっていた。
 これは中国皇帝が周辺国の君主を家臣(王)として認め、中国が必要とする兵力などを出す代わりに、自国が他国から攻められた場合は中国が援軍を送る軍事同盟を結ぶとともに、中国との間で貿易を行う制度だった。
 中国は冊封した周辺国の内政には干渉せず、しかも財宝や中国産の絹製品、陶磁器など、当時の世界では最高級品とされる品々を贈った。
 周辺国としては、中国皇帝の家臣になるという窮屈さはあったが、それを上回る物質的な恩恵を受けることができた。
 冊封体制は、唐の時代まで中国が移行の基本体制だった。
 が、その後の宋の時代には王朝が弱かったために冊封体制はとれず、その次の元の時代にはモンゴルという異民族による支配だったため採用されなかった。
 冊封体制は、明の時代に復活し、永楽帝の時代に拡大された。
 朝鮮、ベトナム、琉球(沖縄)などの古くからの冊封国のほか、シャム(タイ)、チベット、ビルマ、マラッカ(マレーシア)、それから足利義満の室町幕府も「日本国王」の称号を与えられ冊封国となった(足利義満が冊封をうけたのは、自分が「国王」になり、天皇の力を弱めるためだったといわれているが)。
 鄭和の大航海は、この冊封体制をさらに世界に広げるものだった。
 財宝を船に積んで東南アジア、南アジア、中近東からアフリカまでの国々に配って回ったのである。
 これは元の時代のように中国を貿易帝国として復活させる試みであったと思われる。

 ここで一つ、疑問が生ずる。
 中国は「近代化」に失敗したのに、日本は明治維新をやって近代化に成功できたのは、どういう違いによるものなのか、という疑問である。
 私は、その理由の一つは「危機感」を感じることができたかどうか、という違いだったのではないかと考える。
 アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたことは、「冊封」で考えた中国の清朝にとっては大して危機感を抱かせるものではなかったが、日本の江戸幕府にとっては大事件として受け止められた。
 
 江戸幕府は徳川家康以来、外国の動向にすこぶる敏感であった。
 江戸幕府が成立した時代は、ポルトガルやスペインの船が日本に到着し、九州や京都の大名たちがキリスト教に改宗する事態となった。
 徳川家康や豊臣秀吉は、ポルトガルやスペインの力を借りた大名らの勢力が拡大することを怖れて、キリスト教を禁じ、江戸幕府は外国との交流窓口を幕府統制化の長崎に一本化した。

 日本の歴史をみると、海外からの技術は常に九州などの西国から入ってきたが、鎌倉から江戸に至るまでの歴代の幕府は常に東国の勢力だった。
 天下をとった東国の勢力は、西国の勢力が外国の武器や技術を取り入れて強くなることを警戒し、その帰結が江戸時代の「鎖国」だったと思われる。
 つまり鎖国とは、国外からの情報を幕府が独占するための政策であり、幕府はそれだけ外国の情報に敏感だったとことになる。
 だから鎖国していても、アヘン戦争で中国が負けたことは、「次に狙われるのは日本だ」という危機感をもたらした。

 また、隣の朝鮮は長く中国の冊封体制下にあり、中国の指示に従っていれば、国は安泰であった。
 それに比べ、大陸から離れた島国だった日本は断続的にしか冊封体制の中に入っておらず、中国の動向は海外動向の一つとしてウオッチする対象だった。
 アヘン戦争後、日本は明治維新によって近代国家に変身し、国民皆兵によってヨーロッパ並みの戦争力を身につけたが、朝鮮の王宮では中国の方ばかり見ていたため、近代化の必要性に気づくのが遅れ、帝国主義国となった日本の植民地にされてしまった。

 日本は1894年の日清戦争で清朝に勝ち、台湾を植民地とし、朝鮮を冊封体制から外して日本の影響下に置いた。
 1895年、日清戦争で清国を破った日本は、清に台湾を割譲させ、第二次大戦でまける1945年までの50年間、台湾を領有し、植民地として統治した。
 この間日本は抗日運動を徹底的に取り締まり、公的な場での台湾語を禁止し、日本語や日本風の生活を台湾の人々に強要した。
 日本人を一等国民、台湾人を二等国民として扱うという差別も強かった。
 だが日本は同時に、鉄道や道路、水道、電信などの社会基盤を整備し、教育制度を整えていった。
 それが、後の台湾が発展する基礎になったのだが、このことは李登輝前総統が著書で述べるなど、台湾の
  「公式見解」
 となっている。








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★ 米中論 何も知らない日本:「冊封」と鄭和艦隊:田中宇


● 2002/06



 歴史の教科書では人類で初めて世界一周をしたのは1522年、マゼランのスペイン艦隊だということになっている。
 新説によると、世界初の世界一周をしたといわれるのは、中国の明朝時代に鄭和に率いられた艦隊だったという。
 鄭和は1405年から1433年にかけて7回の遠征を行い、最盛期には300隻以上の大編成で航海したと伝えられているという。
 カリブ海やオーストラリアの周辺で巨大なふるい中国の難破船が発見されているが、これらは鄭和の艦隊の一部であった可能性がある。
 またベネチアでは1428年に、アフリカ、南北アメリカ、オーストラリアを含めた正確な世界地図が存在していた。
 この地図は鄭和の航海記録をもとに中国で作られ、シルクロードの交易を経ベネチアに運ばれたという説もある。
 そして「この地図を見た、コロンブスやマゼランらが、自分たちも航海して貿易で大儲けしようと考えたのではないだろうか」と言われてもいる。
 
 鄭和の航海は、当時の明朝の国家的大事業であった。
 第一回の航海の2年前、皇帝からの命令で造船所がつくられ、福建省では137隻、江蘇省では200隻の造船が命ぜられたという。
 航海が始まった後の3年間には、さらに1,700隻の建造が進められた。
 これらの船は最大で長さ140m、3,000トンの大型船だった。
 マゼラン艦隊でただ一隻、途中で沈まず世界一周に成功したビクトリア号はわずか「80トン」、コロンブスがアメリカ航海で使ったサンタ・マリア号も「80トン(長さ24m)」であった。
 中国はヨーロッパに比べて30倍以上も大きな船を造れたことになる。
 当時の中国の造船技術そのものは、ヨーロッパよりはるかに'進んでいた。
 大きな船の造船や修理にはドッグを使う必要があるが、中国では10世紀にドックが造られていたのに対して、ヨーロッパでは15世紀になってイギリスで作られたのが最初である。
 造船技術だけでなく、技術や制度の多くの面で、そのころの中国はヨーロッパより進んでいた。

 ところが、そんな明朝の国家的大事業だったにもかかわらず、鄭和の大航海が終わってしばらくすると、大航海によって蓄積された海図や国際情勢に関する資料などのほとんどが、朝廷内の紛争で焼かれてしまった。
 それだけでなく、明の朝廷は大航海の期間中に盛んに造船を奨励したのに、航海が終わった1536年ごろから造船や海上貿易に対して消極的になった。
 1500年には二本マスト以上の船を造ることが禁じられ、1525年には海外渡航できる外洋船を取り壊すように命令が下った。
 中国は、鄭和の遠征からわずか100年で、「鎖国」と「海上貿易禁止」の国に転じていた。







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2010年3月6日土曜日

: 「認識台湾」&「母語回復」

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● 2005/04



 代表処の婦人会の人たちにも、台湾語が話せない人が多くいます。
 「あなたは外省人なの?」と聞くと「違う」といいます。
 台湾語を聞いて意味は少しわかるのですが、言葉が出てこないのです。

 問題なのは台湾には、
  「中国語は上品な言葉。台湾語は下品」
 と思っている人たちがいることです。
 台湾語を話すと二級市民と見られるという意識があるのです。
 「台湾語は話せるけど、ちゃんとした会議では台湾語は使わない」という人もいます。
 そういうことはおかしいと皆分かりかけているのですが、50年という時間は長く、しかも小学校からずっとそういう教育を受けていますから、台湾人が自分意大して自信がもてないというのは、無理もないことなのです。

 いまでは自信を取り戻すために、さまざまな人たちが教科書に台湾のことをもっと入れようと努力しています。
 一時期は「認識台湾」という科目も設定されました。
 しかし、これは2003年に立法議会(国会)で、統一派の議員の反対があり、取りやめになりました。
 ですから、憲法を改正しなければ、本当に教育も変えられないのかもしtれません。
 つい先ごろも、国家公務員の試験で台湾に関する問題を出したら、国会で大きな反発にあいました。
 試験問題を作成した人をクビにしろという意見も出たのです。
 国家公務員は台湾のことを知らなければいけないのに、反対するのはおかしいと思います。
 まだまだ、このようにもめている最中なのです。

 現在、台湾の共通語は北京語です。
 北京語が強制されなくなったのは2000年に政権が変わってからのことです。
 ここ数年は、「母語回復」の運動や「台湾本土化」政策が始まっています。
 公共テレビで長い時間をさいて原住民の言葉と文化を伝える番組が放送されるようになりました。
 客家委員会というのもあります。
 「ハッカ文化と言葉」を大事にするという趣旨で、彼らは独自のテレビ局までもつようになりました。
 この局ではハッカ語の番組を24時間放送しています。
 一般的なテレビは北京語での放送ですが、ホーロー系の人たちが一番多いため、最近ではホーロー語が復活してきました。

 現在、台湾には、
  「自分は台湾人でなく中国人である」
 という人はまだいます。
 しかし、その数は統計では毎年、減り続けており、かっては30~40%もいたのが、最近は10%ぐらいになりました。
  「自分は中国人でなく、台湾人」
 だという人は、以前は30%前後だったのですが、いまは50%くらいに増えています。
 そして、
  「自分は中国人でもあり、台湾人でもある」
 という人が約30%です。

 香港の人たちが、
  「自分たちは中国人ではなく、香港人だ」
 という考えを強くもったのは、中国に返還されてからのことです。
 それ以前は曖昧で、
  「自分たちは中国人かもしれない」
 という」想いがありました。
 ところが、中国と一緒になった途端に、「やっぱり違う」ということに気づいたのです。
 台湾人はいま、台湾人として自信を取り戻し、アイデンテイテイを確立する作業の途中にあります。
 自分が台湾人だと薄々解りながらも、公然といえない、言うとなんあだか恥ずかしい、という状況がおおよそ100年も続いたのです。
』 









[◇]
 カバーにちりばめられた信仰言葉からわかるように、この本は一般の日本人をターゲットに台湾理解のために書かれた本ではない。
 日本人キリスト教徒へむけた信仰告白書なのである。
 「かくのごとき行動を通して、私たちは主への信仰を為している」
 というものである。
 一般にも販売されているようであるが、本屋の店頭に置かれても手に取ることはあっても、購買までは結びつかないようにつくられている。
 カバーをざっとみれば、ごくあたりまえの日本人なら、ページをくくることなく、ためらわずに元の位置に戻してしまうだろう。
 台湾について分かり易く書かれているのだが、日本人全般に向けて台湾を知ってもらおうという常識的意欲は感じられない。
 これは宗教書のもつ特徴でもあるが、信仰がすべてに優先するグループ内での価値でのみ存在しえている。
 サブタイトルには「天になるごとく、地にもなさせたまえ」とあり、神様がやってくれるから、なによりも神様を信仰せよ、と言っている。
 ちょっとお腹に力の入らない本でもある。

 しかしこの本、「台湾入門」には非常にいい本である。
 でも表紙だけが、「読んで欲しくない、アッちへ行け」と読者を拒絶している。
 残念なことであるが、日本人にはそう映る。
 皮肉っぽく言えば、
  『台湾はキリスト教エリート台湾人の国』
 といった本である。
  
 もし、カバーの宗教的傲慢さにフタをできるようなら、読んでいい本である。
 台湾理解のためにお勧めの本の一冊である。




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2010年3月5日金曜日

: 4つのエスニック・グループ

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● 2005/04



 台湾と中国の関係は。アメリカとイギリスの関係に似ています。
 アメリカはかってイギリスの植民地でした。
 原住民たちが暮らす土地に、イギリスから海を渡ってやって来た多くのアングロサクソンたちが入植し、開拓しました。
 やがて独立戦争が起こり、いまではアメリカはイギリスとは完全に切り離された独立国となっています。

 私たちの祖先の多くも、もともとは中国から海を渡ってきました。
 これは、アメリカ人の祖先の多くが、かってイギリスから渡ってきたのと同じです。
 しかし、ある期間を経て、それぞれ別の国を形成するようになります。
 台湾と中国の関係も同様です。
 アメリカ人がすでにイギリス人でないように、台湾人もすでに中国人ではないのです。

 台湾には、おおよそ4つの言語があります。
1. 原住民の言葉
2. ホーロー語
3. 客家語(ハッカ語)
4. 北京語(ペキン語)
 です。
 これら言語の違いにしたがって、台湾人は4つのエスニック・グループに分けることができます。

 原住民は旧い時代から台湾に住んでいた、マレー・ポリネシア語系の人たちです。
 かれらの言葉は、いまもフィリッピンの一部の人たちが使う言語と共通する部分があります。
 これは、戦争中に日本の兵隊としてフィリッピンへ行った原住民が発見したことです。
 原住民は台湾にいちばん長くいる人たちですが、今日では数が少なくなり、全人口約2,200万人のうち、約「45万人(2%)」です。
 アメリカやオーストラリアでもそうですが、原住民というのは圧迫を受けがちで、数がどんどん少なくなる傾向にあります。

 その他は漢人です。
 かって中国から渡ってきた人たちですが、そのなかでさらに3種類に分かれます。

 一つは「ホーロー語」という言葉を使う、15~16世紀におもに中国の福建(ふっけん)から来た人たちです。
 かれらがいちばん数が多く、現在、約「1,610万人(73%)」います。
 私たち(著者夫妻)はおそらくこのグループに属するだろう思いますが、途中でいろいろな人種が混ざっているでしょうから、確証はありません。
 しかし、いま使っている言葉からいえば、まちがいなく「ホーロー語系」です。
 この人たちがいつごろ中国から渡って来たかは人によってさまざまで、まだ二代目、三代目の人もいます。

 二つ目は「客家(ハッカ)」です。
 彼らはホーローから少し遅れて、主に中国の広東(カントン)から渡ってきました。
 彼らの言葉は広東語ではなく客家語というものです。
 中国の元国家主席の鄧小平さん、シンガポールの元首相のリー・クアンユーさん、台湾前総統の李登輝さんが客家です。
 1851年に中国で起こった「太平天国の乱」における反乱軍の主流をなしていたのも、この客家の人たちでした。
 かって一般の漢人には纏足(てんそく)の習慣がありましたが、客家はそれをしませんでした。
 同じ漢人系の言葉でも、ハッカ語とホーロー語はずいぶん違います。。
 この「ハッカ語系」の人たちが現在、約「345万人(15%)」います。

 これまでに挙げた3つのグループの人たちは、第二次世界大戦が終結した1945年8月以前に、すでに台湾に住んでいた人たちです。
 1895年から1945年までの50年間、日本は台湾を植民地として統治していましたから、この50年間、彼らは「日本人」とされていました。
 戦争中は、日本の兵隊として戦場にも行きました。

 4番目は、もう一つの漢人系のグループで、終戦直後から1949年の終わりごろにかけて中国大陸から渡って来た、国民党政府とその家族たちです。
 この人たちは日本による被統治の経験はなく、第二次世界大戦では日本と戦っていました。
 いちばん最初に国民党が台湾に入ってきたのは、「1945年10月25日」のことです。
 日本が8月15日に敗戦し、すぐにアメリカ軍が進駐してきたのと同じように、それまで日本に支配されていた台湾に、中国から国民党が進駐してきたのです。
 その後、1949年10月に中国大陸で中華人民共和国が成立すると、国民党政府の関係者が百万人以上も中国から逃げてきました。
 戦後、こうして占領軍のような形で統治者として大量に入ってきたこの中国系の人たちは、北京語を共通語としていました。
 この人たちとその子孫が現在の「北京語系」グループで、いわゆる「外省人」と呼ばれる人たちです。
 その数は現在、約「300万人(14%)」です。











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